環七歩道橋より望む
新川口橋より環七方面を望く
江戸時代から昭和中期頃のわたしの新川
明治維新後の土地の 評価額
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明治時代の登記簿謄本
● 昔は良かった ●
新川の名称の由来は、江戸時代に新川口から三角まで掘り上げた運河で、
江戸川五丁目が発祥地であり、古来から新川と言えば五丁目(江戸時代〜
大正時代は桑川町会)川通りを指していました。
昔は、新川(江戸川五丁目)川通りは東水門の曲がり角から、かわまたや・
栃木や・(新川口橋)から吉野屋・小川や・ 橋本漁業組合長 (後に加藤靴金
工場)・与惣兵衛(組頭・村方五人組)(屋号)・永楽や・ 勘七(村方五人組)(屋号)・
藤右衛門(組頭・村方五人組)・ふじや(下駄や)・もんざい(屋号)・大岡 ・げんざ
(屋号)・下駄や新屋・桶や 権右衛門(屋号)
(村方五人組)・わらじや・新宅よそべ
しんや・ 吉右衛門(組頭・村方五人組)(屋号)・うどんや(エンタクやタクシー)・
ういむ・
たけや・やしち・うなぎや・はこや・うまや
新川通りでの主な家並みです。
明治時代まで桑川町会に所属していました。後に与惣兵衛さんを筆頭に、
村頭五人組が新川五丁目を独立に導いたと聞いています。 私どもの九代目の
元澤定吉(権右衛門)が初代町会長となったと聞いております。
新川口橋の現在の水門際角に かわまたや・栃木やの川岸に ぽんぽん蒸気
船の乗り場が 在り、浦安から江戸東京へ行く、唯一つの交通機関でありました。
新川通り(江戸川五丁目)は、メイン通りの新川銀座で、新川口橋際にはゴッタ
クヤ(カフェ)や、大岡さんの川向こうには
船付場があり、又芝居小屋があったり
と他の地区から 夜遊びの若い衆で、にぎわった との事。
朝方は、夜明け前の早朝から、浦安の漁船・この近在の半農・半魚を営む方の
海苔の採取の機械船・ 砂採取の砂舟運搬船等・往来が多数有りました。
昼間は、千葉方面からの野田醤油の運搬だるま船・主要物資の運搬船・東京
江戸から、し尿運搬船等の船舶が、多種・多数往来していました。
春には、東京方面から、篠崎堤防のさくら見物に、おはやし太鼓・笛でのだるま
船が往来。昔は、時を知らせる 情緒風情ある新川でした。
船の騒音・川へウジ虫を落としながら汚して走り、ウンチの悪臭を放す船・
多数・多種の船が往来する 新川でしたが、
誰一人として騒音でうるさいとか、
くさい・汚いとか、公害として
もんくを言い 訴える人は有りませんでした。
又新川(五丁目)川通りは、ケヤキの木が点在していました。元澤自宅前にも
ケヤキの大木があり、大正12年の大震災時、私の親父は13歳でして、新川
川通りの人々は木と言う木にしがみ付き、難を逃れたとの話を聞いています。
現在の希望の家の 数m手前に、高橋(与惣兵衛 屋号)さんの前にも木が
2本あり、木登りをして遊んだり、大岡さんの前の道路上にも、40年ほど前まで、
7〜8m間に2本あり、ひとつは子供の頃3〜4人で手でつないで囲む程の大木が
あり、夏には、木の木陰で、毛虫・小さな芋虫・色々な虫の下で、縁台で、
将棋をしたり、メンコ・ビイ玉・ベイゴマ・ゴロ野球・など等 セミの鳴き声の下
での良き遊び場でした。 毛虫や虫の害を、どうのこうのと 苦情・騒ぎ立てる
者も居ませんでした。
又、悪いたずらも有りました。大正時代に葛西に唯一つしかなかった、葛西
小学校の初代校長(?)大岡校長のツルはげと大木に刻んだり、悪ふざけを
する者もいました。十五夜の晩には、かき・びわ・団子等の盗み、お稲荷さん
の初午には、゛オーカンケクンナよ゛と叫んで公認された遊び(?)が有りました。
しかし、今とは違って悪い事をすれば、他の大人達も親同様に叱り、叱られ
れば 素直に従い、反抗する者はなかった。 とかく“そんな昔の古い話を
してもしょうがねえ”と若い者に言われる 古い人間の部類に入りましたが、
しかしながら、この新川(五丁目)川通りは、この裏側の地域の田畑の土地を
住宅化した地域とは違った徳川時代・明治・大正・昭和・平成に渡る祖先の
古い血を継いで居る家が、現在も数軒あり、我が家は、私で11代目で
数少ない家の一人に なりましたが、今も直 たとえ家が消えても、目の
見えない天と地で 私達の先人達・祖先が築いた
魂が、きずなを消さずに
大切にと、保全を叫んでいる様で成りません。
Sadaji Motozawa
チョイト開いてください11
江戸(東京)と下総の国(千葉)を結ぶ水路で、江戸時代に掘った運河といわれている。
現在の土地課税評価路線価格
固定資産税額基準にした始まり・・・・・・・・
明治・大正時代の新川町会の有志